海沿いの鉄道は津波でずたずたになり、内陸を走る新幹線のくりこま高原駅から、レンタカーで海岸に向かうのが最短のルートです。道路の復旧は進んでも、高校生の通学の足や、あの津波にのまれ、屋上に多くの方が避難した志津川病院への通院の足になっていたであろう、気仙沼線の復旧の見通しは立っていません。生活を支える交通や店舗、学校、病院、役場など、根こそぎ失われる津波災害の凄まじさ、そして、復興への長い道のりに思い至ります。
世田谷区では、失われた固定資産台帳の復元を、リレー方式で職員を派遣している、世田谷区のチームだけで完成するという支援を行っています。リアス式海岸の湾の奥に広がる高台の、無事だった家屋への調査は、非常用食料をお弁当代わりに持って、地元の方に負担をかけないように行われていました。「遠い所をありがとう。」と喜ばれ、若い区職員は、合宿のように集中しての作業から、行政の使命など、学び取ることが多いとのことです。
1万7千人の町民のうち、千人が失われた南三陸町。今の役場は、140人の職員に、全国から140人位の各自治体からの支援職員が入り、住民の生活の立て直しのため働いているとのこと。88万人が暮らす世田谷で、同じ規模の地震が起こった時、どれ程の対応が必要となるのか、人的な資源の確保だけを考えても、空恐ろしいものがあります。
倒壊家屋を減らす、災害時に緊急用道路を確保できる交通のしくみを確立するなど、減災のまちづくりに、世田谷区でも取り組んでいく必要性を感じました。
災害から5カ月、亡くなられた方に思いをはせる季節です。魂が安らかであられますように。ふるさとの復興を見守って下さいと、祈らせていただきます。